鞄の中からなにやら歌声が漏れていると思ったら、電話が鳴っていた。普段携帯電話という物に執着が皆無であるは、たまにかかってくる電話や送信されてくるメールを見過ごしてしまうことがよくあったが、今回は何故だか明確に着信音が耳に届いて、電話が鳴っているという事実をその場できちんと知ることが出来た。
耳にはめたイヤフォンを外し鞄の中から携帯電話を取り出すと、くぐもっていた着信音がさらに大きく響いた。ちなみに着信音は海外のハードロックだ。かすれたヴォーカルが熱っぽく歌い上げている。
二つ折りの電話を開くと、画面には『』の文字が浮かんでいた。はその文字列を目で追い、前に電話が来たのがいつだったのか思い出そうとしたが、その記憶はぼんやりとした霧がかかっているようで思い出せない。
早々に思い出すことを諦め、長く伸ばした爪で通話ボタンを押した。
「もしもしー」
『ィィィィッ! ちゃん参上!! 元気だったかいっ!?』
「元気だよ」
は久しぶりに聞く姉の声に、何とも言えぬ安堵感を感じた。相変わらずの無駄なテンションも、遠く離れるととても恋しく感じる。
『こっちは超超快適! 慣れちゃうと結構楽しいよエジプトって!
しなびたミイラしかいねぇじゃんとか思ってたんだけどさー、ピラミッドとかすごいよかっこいいよ!』
「そっか。作品できそう?」
『超ビンビンって感じ? なんかエジプトパワーを頂いたっていうか』
は世界的に高名な芸術家で、『悪魔の手』という、悪名とも称号とも付かぬ二つ名を持っている。それは彼女の人柄からは想像もつかないほど前衛的で鋭い感性をもつ芸術を作り出すことに由来する。
時折インスピレーションを求めてふらりと旅に出るが、現在はエジプトに滞在しているはずだ。はいつもに言わずに勝手に家を出て、気が向いたら電話を掛けてくるが、こちらからの連絡は非常につきづらい。
「今回は彫刻? 油絵? 水墨画?」
『今回は水彩画だよん。ピラミッドの壁画を見てからメキメキ! って感じでアイディアが浮かんできたんだよね』
「それならよかった」
は自分のことのように喜んで笑った。姉の創作意欲にはムラがありすぎるのだ。アイディアが浮かばない時の、自殺でもするんじゃないかと危惧する程やつれた姿でエジプトの地にいるのではないかと危惧していたが、どうやらその心配もないようだ。
「それで? いつ帰ってくるの?」
『…そのことなんだけどぉ』
姉は珍しく言葉を濁した。
「え、どういうこと?」
姉は小さな声で何事かをに囁いた。は真面目に頷きながらその言葉を聞いていたが、やがて自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。
「冗談でしょ?」
の耳に届いた自らの声は、非常に滑稽で無様な響きを持っていた。
『のことが心配だから、ある人にの事をお願いしたの』
電話越しに姉はそう告げた。姉がこういったはっきりとした物の言い方をする時は、絶対に決めたことをねじ曲げない証拠だ。
『考え方もしっかりしてるし、この人にならを任せられるって思った。
だからワタシが帰ってくるまで、その人と仲良くやってほしいんだ』
はマンションのエレベーターの壁に寄りかかり、姉の言葉についてずっと考えていた。エレベーターは非常に緩やかな速度で上昇しており、の部屋がある四階までたどり着くのに、もう少し時間がかかるだろう。
姉は少々――否、かなりエキセントリックな人柄であったが、まさかここまで馬鹿馬鹿しく呆れた計画を実行してしまう程だとは思っていなかった。自分の代わりに見知らぬ人間を派遣し、自分がここに帰ってくるまで、見知らぬ人間と日々を過ごせと言っているのだ。
ここまで来ると呆れて物も言えない。天才は往々にして奇人変人が多いものであるが、ほどぶっとんでる人間はいないと断言できる。
はため息をついた。ため息をついたところで何もならないことなど知っていたが、そうせざるを得なかった。
エレベーターが四階に着くと、もまた緩慢な動作でエレベーターから出てきた。ブレザーのポケットから鍵を取り出すと、無駄に沢山つけたキーホルダーを指の先でもてあそぶ。
「おい、女ァ」
はその声に足を止めた。膜がかかったぼんやりとした思考で、自分の事を呼んでいるのだろうと思った。
急いで周りを見回すと声の主はすぐに見つかった。と目が合うと、もたれていたフェンスから体を起こし、真っ直ぐにこちらに向かってくる。
それはずいぶん若い男だった。と同じくらいの年代だろう。日本人の物ではない黒い肌。すらりと伸びた手足に、ほどよく筋肉が付いた身体は均整がとれている。
うっすらと浮かべた恍惚の微笑に、閉ざされた闇夜を連想させる紫の輝きが、の両足をそこにつなぎ止めていた。
「よぉ」
男は親しげに声を掛けてきた。まるで古くからの友人に声を掛けているような響きであった。
「こんにちは」
とりあえず挨拶を返して置いたが、この男はあきらかにおかしい雰囲気を持っていることは明白である。少なくとも、善良な人間ではないだろう。
自分に何か危害を加えてくるようならば逃げるつもりであるが、はこの男に付き合ってやることにした。
「おい主人格さまよぉ、この女がか?」
ああ、これは、なんだ。
電波を受信したり送信したりする類の人なんだろうか。
とにかく逃げよう。逃げるべきだ。
がくるりと背を向けて逃げ出そうとすると、男はのコートのフードをがっちりとつかんだ。
「ぐおっ!!」
首を圧迫されたは、女としてどうかと思う悲鳴を上げる。
「ちょっと待ちな。貴様、だろぉ?」
「そ、そうだけど」
のフードから手を離した男は、懐から一通の手紙を取り出した。味気のないエアメールの封筒に、筆記体で記された姉の名前を発見するや否や、は男をまじまじと見つめた。
「これがなんだかわかるよな?」
は頷いた。
見えたのは一瞬だが、あれは絶対に姉が書いた手紙だ。姉の字は独特の癖があって、彼女の字を真似するのは至難の業である。
「貴様宛の手紙だ。受け取りな」
が男から奪うべきかどうか思案していると、男は無造作に手紙を投げた。綺麗な軌跡を描いての手に収まる。封をされている様子はなく、封筒はすぐに開いた。
中に入っていたのは便せん一枚だけであった。他に何も入っている様子はない。
はすぐさま便せんを広げると、書かれた内容に目を落とす。
『親愛なる妹へ。
あなたがこの手紙を読んでいるって事は、マリク君がちゃんとに
会えたのかな。
今ワタシは、マリク君のお家――イシュタール家にお邪魔してる。
マリク君は聡明で物わかりが良くて、もきっと気に入ってくれるだ
ろうと思うよ。
勿論ワタシは安心して、マリク君にを任せられる。
ワタシが帰ってくるまで仲良くやってね。
姉より』
「なるほどね」
は元通り便せんを折り畳むと封筒に入れ、鞄の中に封筒をしまった。まだ上手く事実を飲み込めないが、とりあえず目の前の男の素性と姉の明確な居場所がわかっただけでも大きな収穫だ。
「それならおいで」
「あ?」
マリクは驚いた顔でを見た。はマリクの目をまっすぐに見つめ微笑んでいる。
「凍死したいなら別にいいけど。今時期は寒いよ?」
「………」
マリクは小さく頷いた。その笑顔が、妙に心に引っかかった。
[あとがき]
やっちまった感がある夢、第一弾。
ごめんなさい☆rz