しかし――とマリクは思う。こうも簡単に見知らぬ男を部屋に入れても良い物だろうか。普通は信頼している姉の紹介だとはいえ、少しは警戒するだろうに。
マリクは湯船に浸かりながら、のことについて考えていた。湯船には薄い桃色をした乳白色のお湯が溜まっており、そこから何か甘ったるい匂いがする。
「主人格さまはどう思うかい?」
不意にマリクが問いかけると、彼の背後に薄ぼんやりとした人影が現れた。二人は本当によく似た顔立ちをしているが、先ほど現れた影の方は、穏やかで温かな目をしている。
『さぁね。なにか企んでいる様子は無かったと思うが』
「ふん、どうだか…。相手はあのの妹なんだぜぇ」
『ボクはそうは思わないね』
マリクは眉を微かに顰めた。
「ずいぶん入れ込んでるじゃねぇか、まさか惚れたのか?」
『惚れたのは貴様のほうだろう?』
「俺が、あの女に? 冗談はよしてくれよなぁ」
そう言いながら、マリクはの姿が脳裏に閃いた。その姿はマリクに向かって笑いかけてくれる姿だ。赤いが緩やかに細められ、ちらりと覗いた八重歯が印象的だった。
この感情をどう処理すればいいのか、マリクには解らなかった。ただ胸の奥に熱い物を感じた。今まで感じてきたねたみや憎しみと言った感情とは全く違う。
『やはりな』
影はそう言って笑った。時折見せる意地悪い微笑だ。マリクはいらついた様子で影をにらんだが、彼はまったくひるまずに一言付け加えた。
『貴様はに惚れている』
マリクは苛立ったように舌打ちをして、影に背を向けた。影はしばらく碑文が彫られた痛々しい背中を見つめていたが、マリクが気が付いた時には彼はもういなかった。
マリクが風呂から上がると、はソファに寝そべり分厚い本を片手にビスケットを食べていた。彼女はもうじき雪が降るというのに、Tシャツとショートパンツという出で立ちである。
「食べる?」
マリクは首を振った。冷蔵庫から牛乳を取り出すとグラスに注ぐ。
「それより」
「なんだいマリクさん」
はソファから体を起こした。シャンプーの匂いだろう。柑橘系の匂いが髪からふわりと漂った。
「貴様は平気なのか?」
「平気って、何が」
「普通は見知らぬ男を家に上げたりはしないと思うんだがねぇ」
そう言ってマリクは、牛乳を一気に飲んだ。は目を何度か瞬かせると、ゆるりと首を傾げる。
「マリクは姉さんから紹介された人だし、見知らぬ人じゃないよ」
「まぁそうだけどよ、少しは警戒した方がいいと思うぜぇ?」
「そうかな? マリクはあたしに、何かしようと思ってる?」
そういうわけではない。
マリクは口をつぐんでから視線をそらす。これ以上話しても埒が明かない。もまた、これ以上の言及は必要ないと判断したのだろう。本を開いて読み始める。
しばらく会話もなしにいると、部屋がやけに静かで無機質なものに感じた。なんともいえない気まずさを抱え、マリクはの横顔を見ていた。
なだらかな体のライン。眠たげに開かれた目を、長く濃い睫が彩っている。ページを手繰る指は細く、長く伸ばした爪が光を反射してつややかに輝いていた。
この女に惚れているなどと主人格はぬかしたが、マリクはそうではないと思う。相手は会って一日と経っていない、素性の知れない女なのだ。興味はあれ、これはけして恋愛などという感情ではないのである。
確かには興味深い女だ。それに関しては認める。だがそれは会って日時が本当に浅いからだ。誰だって同じ状況に置かれれば、相手に深く興味を抱くのは当たり前のことである。
不意に、はマリクを手招きした。マリクは訝しげな視線でを見たが、特に怪しげな様子も無い。招かれるままにの元に行くと、はソファの近くに座るように言った。
素直にその言葉に従い、座布団を持ってきて胡坐をかくマリクの頭に、ふわりとした白いものがかけられた。驚いて暴れるマリクを、はぐっと押さえつける。
「なにしやがる!」
「動かないのッ!」
マリクは舌打ちをひとつして、の手を跳ね除けようと思ったが、どうやら危害を加えようとしているわけではないと気がついた。
頭にかけられた白いものはタオルだった。はマリクの濡れた髪の毛を拭いてくれるようである。
はおとなしくなったマリクにため息をひとつだすと、ゆっくりとタオルを動かして髪の水分を取っていく。
「ったく、ちゃんと拭いてこいって言ったでしょ?」
「しらねぇなぁ」
「風邪ひいちゃうよ? そんなことしてたら」
口調こそはしかるようであったが、髪の毛を拭く手つきと声のトーンはやさしく柔らかい。マリクは黙ってに身を任せることにした。
「マリクの髪の毛ってまっすぐになるんだね」
はかるく驚いたように言った。風呂上りのマリクの髪はまっすぐに肩に流れており、額にかかる髪の毛が邪魔なのでオールバックにしている。
「なんだぁ、あたりまえだろうよ」
「ずっとあのままだと思ってたからさー」
そういってくすくすと笑いながら、毛先にたまった水滴をタオルで吸い取っていく。髪の感触がタオル越しに伝わる。
「でもその髪型似合うんじゃない? かっこいいよ」
「俺はいつもかっこいいんだよぉ」
「ふふ、そうだね」
マリクは思わず振り向いての顔を見る。マリクの反応に、は一瞬面食らったようであるが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
なんだか上手くかわされたようであった。自分のペースを乱されたマリクは、かすかに苛立ちを感じる。
「はい、オッケー」
は頭からタオルをはずすと、丁寧にたたんで言った。マリクが髪に触れると、丁寧に水気がとられたそれは柔らかい感触となって、自らの指を刺激した。
「」
タオルを抱えて洗面所に向かうを呼び止めた。は軽く首を傾げて、マリクの言葉を待つ。
立ち上がると、無造作に距離を詰めた。向かい合うと身長差故だろうか、は自然に上目遣いでマリクを見つめる。
マリクはの頬に手をかけると、一気に顔を近づけ、唇を重ねた。は驚いたように目を見張って身をよじったが、マリクはその手を強く握って離さない。
に対して好意を持っているのではないのだ、と何度も何度も言い聞かせる。乱されたペースを自分の元に戻すために行っているのだ。
唇を離すと、の唇からかすかに吐息が漏れた。綺麗に整っているがまだ幼さが残った顔立ちに、そのしぐさは大人びた印象を与える。
マリクはの頬に再度手を触れると、もう一度口付けようと顔を近づける。今度はそれに早く気がついたは嫣然と微笑むと、マリクの腹に強烈な蹴りを入れた。
「あんまりそうホイホイとキスするもんじゃないよ」
腹の中身が全部出てくるんじゃないかと思うくらい鋭い一撃にうずくまるマリクに、はあきれたように言う。
「そんなことしてたら、女の子に嫌われるんだからね」
はマリクをまたいで、悠々と浴室に向かっていった。
あの女、一筋縄じゃいかねぇ。マリクはそうつぶやくと、闇に溶けていく意識を手放した。
【あとがき】
マリク、蹴られる。ご愁傷様です。
一応マリクは主人公に惚れてる、のかな。どうなのかな。
主人公の蹴りは痛いです。急所に当たらなくて良かったね!(下品)